千利休の「わび」とは何?

千利休

 

千利休は、それまでの茶の湯には無かった独創性を発揮させることでわび茶を大成させていきました。利休の茶の湯は、表千家、裏千家、武者小路千家といういわゆる三千家により、現在にも受け継がれています。

 

 

千利休(せんのりきゅう)大永2年(1522年)に生まれ、 天正19年(1591年)に没した、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人です。わび茶(草庵の茶)の完成者として非常に有名で、茶聖とも称せられています。

 

 

今井宗久、津田宗及と共に「茶湯の天下三宗匠」と称され、「利休七哲」に代表されるような数多くの弟子を抱えていました。その子孫は茶道の三千家として現在でも続いています。

 

 

また、天下人である豊臣秀吉の側近という役割もあり、秀吉が旧主である織田信長から継承した「御茶湯御政道」において、多くの大名にも大きな影響力を持っていました。しかしながら、後年には秀吉との関係に不和が生じるようになり、最後は切腹を命じられることになったのです。

 

 

なぜそうなったのか、その真相については諸説があって今もって定まってはいません。表題は「千利休のわび」ですが、こうした千利休の人物像と、「わび」の意味が合わさることで、次第にイメージが湧いてくるかと思います。