千利休の「わび」とは何?

利休の茶の湯

 

利休の茶の湯こそ「わび茶」でもあるわけですが、完成者としての利休という人物のイメージ像は、「南方録」など、後世の資料によって演出されている傾向があります。

 

 

ちなみに「南方録」ですが、これは博多の立花家に「千利休の秘伝書」ということで伝わった古伝書です。しかし、同時代を著している書籍としては内容、用語等に矛盾点が多数あり、現在の研究者間では、元禄時代に成立した偽書とされています。

 

 

以前は「わび茶」の概念形成に影響を与えたとされてきましたが、現在では、江戸期の茶道における利休回帰を裏付けた資料とされています。

 

 

この「南方録」では、新古今集の藤原家隆の歌である「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としています。表面的な華やかさを否定し、質実な美として描かれているわけですが、これらの資料では精神論が強調され過ぎています。利休の茶の湯を結局は不明確なものとしたのです。

 

 

同時代の茶の湯を知るということでは、利休の高弟「山上宗二」の「山上宗二記」が参考になる資料とされています。この書によれば、なんと利休は60歳までは先人の茶を踏襲していたそうで、本能寺の変の年となる61歳から独自の茶の湯を始めたとなっています。そうすると、死ぬまでの10年間がわび茶を完成させた時期ということになります。